浦上雅彦のひとり言

市会議員浦上雅彦の活動日記

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信長ハーツ


私の祖母が生まれた浦上家には男子がなく、祖母は家を継ぐために、婿養子(祖父)をもらいました。

なので、私は小さい頃から祖母に、浦上家の事を聞かされながら育ちました。


祖母は歴代浦上家の人物の名前を暗記していて、解説付きで何十人もつらつらと語れるのです。


浦上家なのに、「紀貫之」とかが途中に出てくる…………小学生になれば知恵もつき………紀貫之??……平安時代の公家が???………だいたい浦上と紀と名字が違うがな……

などと思ったこともあります。。。。近年インターネットが普及し、何でも簡単に調べられる時代となり、ボタンひとつ押せば、浦上家の歴史も出てくるようになりました。パソコンも何もない、百年も前に生まれたおばあちゃんの話しの正確さに、あらためて驚かされる今日この頃です。


武内宿禰から始まる神話レベルの人物はさておき、おばあちゃんが、西大寺の浦上家の直接の祖とした人物は、「浦上右衛門大夫宗次」と言うご先祖様です。


おばあちゃんは、宗景公の子供だと言っていましたが、近年の研究により宗景公の父親、浦上村宗の弟、浦上宗久の事だと判明しつつあるようです。


専門家は、書状の花押が一致しており、二人は同一人物であると認識しています。


宗久は、宗景の叔父にあたり、宗久も備前守護代を務めています。「西大寺市場と家屋敷を安堵し、万一ふとどき者の輩がいたら成敗する」とゆう威勢のいい書状が残っています(西大寺)

最後は兄、村宗と対立し、戦わずして香々登城を捨て、落ち延びたと言われています。


おばあちゃんの語った「浦上右衛門大夫宗次」は、西大寺の民間に沈み、その子供は百姓となり、そのまま土着したと言っていました。



さてさて、天に正しいと書く「天正」とゆう年号があります。

これが全く正しくない(笑)

日本人同士が、殺し合いを繰り返した時代。

その天正元年に、宗景は織田信長から播磨、備前、美作の三国を任す朱印状と、家紋をプレゼントされています(信長公記より)


1572年(天正元年)に信長からもらった紋……
1575年(天正三年)には宇喜多直家の謀反により、天神山城は落城、戦国大名としての浦上家は終わりをつげます。


たった三年間だけ、宗景が喜んで使ったに違いない家紋………織田木瓜の切り口から両方に剣

浦上家の独占紋である事は間違いない。


この一見、変な形の家紋………紋の名称を、クロムハーツ風な風貌と、信長の心(ハート)をひっかけて「信長ハーツ」と名付けよう~あの信長からの贈り物で、時空を越えて、現代でも使える物なんてありえないことだから~ご先祖様に感謝しないといけんねぇ……



なんだか小さい頃を思い出してきたよ
おじいちゃん、おばあちゃん、二人してさんざん可愛いがってくれて、本当にありがとう。なんだか嬉しくなってきた……


これからも浦上家の事、守ってな。。。






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